松本史朗の仏教の批判的考察

松本史朗氏の本、大阪の中央図書館にて借りる。『仏教思想論 上』大蔵出版、2004年刊、一万円もする大冊。

 

第1章 仏教の批判的考察のところを見ていく。

最初の文から「仏教であれ、キリスト教であれ、すべて宗教とよばれるものは、人間がつくりだした夢にしかすぎないだろう」。なかなかの出だしだ。

そしてまず、仏教の核心について、中村元の説を批判する。かの、仏教研究の権威者である。その批判である。

縁起論にもとづかない仏教論を説いている、と批判する。

 

松本の仏教の基本は、アートマンの否定ということで、縁起説を説く。禅もアートマンをもち、仏教ではない、とする。

アートマンは基体説という霊魂がある、という説である。

そのアートマン批判は、つまりバラモン批判で、ジャイナ教批判で、ヒンズー教批判である。

又、松本はオリジナル釈尊に依拠していない、その必要をいわない。釈尊の説から導き出される十二支縁起説こそが仏教という。

 

では、縁起とは何か。ここで次に宇井伯寿の解釈を批判する。

宇井は「世界の相依」と解釈する。それを批判し松本は、縁起とは十二支縁起説を説く、という。釈尊そのものが説いたものでもない、ともいう。

 

第1支は無明説であるという。別にある渇愛説は欲望の否定や苦行主義に陥るからダメ。無明とは無知である。そこからくる無明→諸行の因果関係があり、それは不可逆(時間制をもつ)で、宇井の相依性ではダメ。

で、縁起に対する場合でも、基体説からの展開があるが、それもダメ。それの反定立(アンチテーゼ)である。

 

松本曰く

「縁起は哲学であり信条である。釈尊の悟りは、完全無欠な人間になったということではなく、縁起説で生きていこうと決意したということである。

釈尊の縁起説は自己否定にもとづっく宗教的時間を説くもの、である。

 

縁起説はニヒリズムの究極ともいえる。アートマンを否定し続けることをいう。

釈尊の教えそのものが自己肯定であり、涅槃や解脱を語らざるをえなかった。だれが自己否定のみを語る人物を指導者としてあおぐであろうか。

 

基体説は「華厳経」思想であり、大東亜共栄圏の『国体の本義』の思想であり、侵略戦争の思想である。

 

縁起説は「絶対他者」が必要である。超越的な「他者」がなければ、自己肯定する内在主義におちていく。かくして仏教思想というものは、実に、楽天的で現実肯定的な、危機意識を欠いたいい加減なものとなった。わずかに突出した思想家だけが、自己や同一性を否定して厳しい宗教性を獲得しえた」(誰が、誰のこと?)

 

注目の末尾の文から

「釈尊の縁起説、即ち、“仏教”というものは、たえず繰返し自己を否定しつづけることによって、おそらくは「神」を待ち望むような意義をもったものであったと思われる。なぜならば、自己の否定は、「他者」の肯定を含意し暗示するというのが自然な見方だからである。しかるに、もしそうであるとすれば、われわれもまた、たえざる自己否定を通じて、存在する筈もない「神」の出現を待ちつづける以外にないであろう。」

 

 

以上、松本氏の論である。夢にはじまって、神を待ち望むかたちで終わる。仏教もここまできたか、と感慨深い。もうキリスト教である。バルト神学ではないのか?

でも非常に魅力的である。結構賛成なのである。「神」というより、「真実」へのパッションと強い緊張感でいいのでは。それが仏教にかけているもの、というのが私の最近の結論だ。でも松本氏はラディカルゆえにたたかれるだろうな、と予想する。批判仏教自体が袴谷と、松本の分裂で、沈滞したといえる。モンテイロさんはどうしているのだろう。がんばってほしいが。

 

ネットで袴谷憲昭氏と松本史朗氏と論争は

http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/8dc2813a668a94dcbde2ca8455333521

がわかりやすかった。

 

さらに、松本氏とからむ平雅行氏の論考も注目にあたいする。

下記が要領よく解説されている。

http://blog.goo.ne.jp/a1214/c/fe7fdd33817aaef9d28846229653f295

 

高根図書

 

 

 

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